四 私の父は、私が生れたので、必死に働き出したらしく、私が小学へ入った年か、幼稚園の後期時分か、同じ町の西方、三十七番屋敷へ移った。
私が立てるか、立てぬかの時分、この長火鉢の抽出しを開けると、油虫が、うじゃうじゃと走り廻っていたのだ。
🖕 夜になると、 囃子 ( はやし )の稽古をするので、私達子供は 「のばくの狸が、又囃しとうる」 と、云っていた。
物好きな読者があるなら、僕の父の家を見に行くといゝ。
(三 月 ( つき )食へる) 「戦争と平和」を、二百枚に縮めろといふ仕事だ。
👈 それも、一冊一月がかりで、だましたり、悲観したり、母から半分もらって、残りをねだったり、相当苦心を必要とした。 だが、最後に「実業の世界」で、記者入用の広告を見て、今は無いが、日比谷の角にあつた同社へ行つた。
17この貸本屋で、いかに、私は多くの講談本を読んだか? 「誰ヶ袖音吉」「玉川お芳」などの大阪種の、侠客物の味は、まだ忘れられない。
ただ、齢が齢故、病状の進行が遅いし、意地張りで、こんな病気位と、大して気にも止めていないから、大変、青年達は見込み外れをするかも知れないが、それは、今の所、何っちとも云えないであろうと思う。
😛 この親に、仕込まれたのだから、僕の痩我慢も、決して人後に落ちるものでは無い。 亡くなった翌年の昭和10年、社長・によりが設置された。
三四月からだつたゞらう。
章十四 ある日の正儀• この弁当の菜が、油揚げ、湯葉と、きまっていた。
🤭 大衆文芸新作仇討全集 第1-2巻(直木三十三)興文社 1925-26• 高等小学へ入っても、学校の生活以外は、子守、洋燈掃除、惣菜の買出し、 丁稚 ( でっち )代りであったが、そろそろ大きくなるにつれ、今度は、父が 「店番しろ」 と、云い出した。 しかし、憶えているのがいいか、忘れてしまうのがいいかは、俄に判断は出来ないと、信じている。 隣りに金持があつたが、そこから何かくれると、きつと、それと同等のお返しをする。
12だから、いつも家の中に、じっとしていて、初めて、幼稚園へ行った時など、一人、運動場の隅に立っていて、何んと云っても、人の中へ入らず、母は、心配して、泣いたそうであるが、それが、こういう風に、図々しくなるのだから、おもしろいものである。
しかし、それに応じて買えぬので、いつも、寸づまりの、手首のうんと出た洋服をきて、ぼろぼろの靴に、破れた帽子をかむっていた。
この博覧会に、カーマンセラ嬢電気の舞というのがあった、これを何うかして見たいが見せてくれそうにない。
関連項目 [ ]• そして、父は、僕の為に、二十五年間奮闘をしてくれたが、僕の奮闘も、今年で十七年になる。